幻:No.000
著者:月夜見幾望


それは遠い、遠い過去の記憶。
紛れもない、かつての私が過ごしていた場所・私だけの物語。
だからといって、特に語るべきことはない。
なぜなら、飛び散った断片を繋ぎ合せたところであの子はもう戻ってこないから。
そして私も彼らに利用されるだけの操り人形と化してしまうかもしれないから。






*   *   *   *   *






うっすらと目をあけると、そこはいつもと変わらない堅固な牢室。
無機質な壁に囲まれ、簡素なベッドが一つあるだけの殺風景な部屋。
窓はなく、部屋全体はわずかに灯された蝋燭の明かりによって不気味な陰影を描いている。
この窮屈な箱と外を繋ぐ唯一の扉には鉄格子のようなものがはめ込まれ、しっかりと施錠が施されている。
それはつまり、この部屋は収容した人間を閉じ込める目的で作られたことを意味する確かな証拠だ。
足元にはひやりとした固い床。所々破けたスリッパだけしか履いていない足は、寒さでそろそろ痺れ始めてきている。
だが、そんなことは気にしない。
“あいつら”がいないこの場所は、たとえそこが地獄より酷い所であろうと私にとっては天国だ。
あいつらの顔を思い浮かべて、私は吐き気が起こるのを感じた。

あいつらは人間じゃない。人としての心を持っていない。人をただの道具としてしか見ていない。
およそ考えうる最悪の悪事に手を染めて、蒙昧した自らの願望を叶えるためだけに動く機械だ。
陽の当らない影の中で外部の人間と交わることもなくひっそりと研究を続けていたなら、私とあいつらの接点もなく、今でも家族みんなで普通の生活を送っていただろう。普通の高校に通って、たまには友達と駅前のゲーセンで息抜きしたり、美味しいクレープ屋さんを見つけたり、夜遅くまで宿題に追われたり、妹の勉強を見てあげたり……。

なのに!
あいつらが来たせいで!
あいつらがお父さんを研究に巻き込んだせいで!







───すべてが滅茶苦茶になってしまった。







私の生活も、私の家族も。
ううん、私の”現実”すべてがおかしくなってしまった。




今、私はこうして一人ぼっち。
自分がかつて過ごしていた世界は、もうほとんど忘れてしまった……。




ガチャっというわずかな音で、私の意識は薄汚い部屋に引き戻された。
長時間同じ姿勢のまま蹲っていたせいか、体の節々が痛い。
ベッドに体を預ければまだ幾分楽かもしれないけど、残念なことに私は夢を見ない。いや、正確には夢を見なくなった。
薄れゆく過去の私の記憶の中で、今もなお鮮明と思い出せるあの日以来、私は夢を失ってしまったようだ。

時々思う。せめて夢の中では家族に会えたらいいのになあ……って。
もう一度みんなで笑って、河原でバーベキューして、町内のラジオ体操に出て、温泉旅行して……そんなことがもし夢でできたら、私はまだ正気を保っていられたかもしれない……。
時間の感覚さえ狂うこの部屋では、常に闇だけが私のパートナーだ。
ある意味最高の友達と言ってもいいかもしれない。だって、そうでしょう? 闇は私の中のあらゆる想い、明るい部分も醜い部分も黙って聞いてくれるんだから。
もちろん返事は返ってこないけど、この部屋に充満する闇は私の色に染まった“私だけの闇”だ。



……一体私は何を考えているのだろう。
意味もない思考を繰り返して、届かない願いに想いを馳せて。
ただ毎日毎日、日課のように視えない何かに八つ当たりを繰り返す。
それはもう、他人から見れば正常な人間の行為には映らないだろう。
常軌を逸した異常者。精神の不安定な“かわいそうな女の子”にしか見えないのだろう。
ここに収容される前、そんな私に手を差し伸べてくれた人がいた。でも、私はその誘いをことごとく断った。
だって、私は異常者なんかじゃない!
あいつらも、人道から外れたあの研究も、全部全部本当に実在しているんだから!

「そうとも、我々は現実に存在している。決してまやかしの類なんかではない」

唐突に、底冷えするような声が私の闇を侵した。
まるで夜空に浮かぶ三日月のように、笑いながら私を追いかけてくる声。
逃げても、逃げても先回りして私の行く手を遮る壁のような声。
私の生活を奪った、この世で最も憎むべき相手の声。

「あ、あんたは……」

思わず唇が震える。
それは怒りによるものなのか、それとも恐怖によるものなのかは判然としない。

「いやいや、まったく探したよ。君が我が研究施設から逃げだして一週間。世紀の大実験がいよいよ大詰めを迎えるという大事な時に脱走とは……君の監視役を任されている私は上司からかなりこっぴどく叱られたよ。なにせ、あの実験は君の協力があって初めて成功するものだからね。上層部もいつも以上に神経を尖らせているわけだ。君自身は我々の組織体系に興味はないだろうが、それでも重要な役割を担っていることだけはそろそろ自覚してもらいたいものだ。しかし、それにしても……」

背が高く、白衣を纏った、いかにも科学者といった出で立ちの男は周囲を見回してため息をついた。

「かなり酷い環境に逃げ込んだものだ。君を拘束している連中の気がしれないよ」
「お前らの研究施設より、ここのほうが数百倍マシよ!」

怒鳴り声が辺りの空気を震わす。
だが男は無機質で冷淡な態度を崩すことはなかった。

「それはなぜかな? 我々の研究施設に来れば充分な食事が提供される上、空調設備も万全。君のプライベートを守るために専用の個室も用意されている。さらに君のお父さんが書いた豊富な資料も残されているし、なにより君の願望を叶えることも……」
「ふざけるな! 父さんは、お前らみたいな頭の狂った外道のすることには一切関わっていない! 勝手に押しかけて来て私の生活を奪ったくせに……二度と私の前に現れるな!」
「君のお父さんが我々の実験に関わっていたのは事実だよ。君があまりにも信じないからこの前証拠を見せてあげただろう?」
「あれは……お前らが私を騙すために用意したものに決まってる。父さんは普通の金融会社に勤めていたはずだもの」
「“表向きは”な。家族には黙っていただろうが、裏では我々と手を組んで人類の究極目標の一つ……すなわち“死者蘇生”の研究を行っていたわけだ」
「死者蘇生なんて……そんなことできるもんか! そっちこそ叶わない欲望なんかにいつまでも縋りついてないでいい加減目を覚ませ!」
「ふん。ここまで聞き分けの悪い子を相手にしたのは初めてだが、まあ丁寧に説明してやろう。……いや、その目は実際に自分で確かめないと信じられないと言いたそうだね。いいだろう。今度研究過程で犠牲になったマウスを一匹蘇らせる実験を行う。人類歴史初の奇跡が成される瞬間に立ち会うことができるんだ。当然、今度は協力してくれるんだろうね?」
「……答えは言わなくても分かってるでしょう?」
「ああ、これまでに何度も逃げ出した君のことだ。こちらとしても快く承諾してくれるとは思っていない。だが、今度ばかりは特別でね。拒否権は諦めてもらいたい」
「……っ!」

どこから持ち出してきたのか、男は鍵を取り出すと慣れた手つきで扉を開けた。
その一瞬の隙を逃さず、私は男を強引に押しのけると、その向こうに永遠と続くように感じられる冷たい廊下をただひたすら走った。方向なんか分からない。ただあの男から逃げたい一心で闇雲に走り続けた。
走っている途中でスリッパが片方脱げたが、そんなことに構っていられない。乱れた呼吸から発せられる不規則な白い息を横目で見ながら、ひたすら廊下を駆け抜ける。
男が追ってきている様子はなかったが、それでも怖くて後ろを振り返ることなく懸命に足を前に動かした。
そうしている内に冷たい外気が体を覆った。もう11月も終わろうとするこの時期の寒風に晒され、急速に体の熱が奪われていくのを感じたが、それでもやっと外に出られた。
周囲にはやはり色濃い闇が広がるばかり。しかし、それは自然の闇だ。
遠くには深夜近い時間にも関わらず、まだ八王子の街並の温かな明かりがいくつか灯っている。ふと頭上を見上げると、黒い天蓋にはいくつもの星が瞬いていた。

「はあ…はあ…。とにかくここからもっと離れなきゃ」

私は、八王子市中心部に向かって歩き出した。



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